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死に入り身する

 

先日、仕事で映画『鬼滅の刃 無限城編 猗窩座再来』を鑑賞させていただきました。

 

前回の映画では、猗窩座=鬼からの学びに感動しましたけど、今回は鬼の学びに加えて背景の素晴らしさに感動しきりでした。

 

 

緻密で美しく無限に広がり、鬼も人間も対等に存在を許している空間で

 

止むことなく繰り広げられる闘いシーンに、人間も鬼も意識レベルは同等だと教えられました。

 

 

何度斬られても、首を刎ねられても直ぐに再生してしまう鬼のカラダに、死ぬに死ねないエゴの轍が読み取れて、

 

そんな鬼に生まれ変わる機会=死が訪れたのは、内なる感謝が溢れた瞬間を観て、感動の涙が溢れました。

 

 

感謝とおもいやりによって、相手を殺すのではなく、自らのエゴを焼き尽くすことを選択した猗窩座。 

 

(エゴの)死は、素流(素の流れ=本来の生き様)に戻る必要なプロセスであり、

 

エゴの死に入り身することで、本来の人型生命体に戻ると教えていただきました。

 

そして、猗窩座の素の名前に「白」が入っているのも面白い。

 

 

炭治郎は「思考しろ」を連呼するあたり未熟さが滲み出ていますし、

 

気づきを与える猗窩座のセリフには体験の深みが滲み出ていますから、

 

先達から学んだミロク五次元とミヨイズ五次元のように、神と鬼は成熟のベクトルが違うように感じます。

 

 

死に入り身するとは、意識の身勝手で體を犠牲にすることではありません。

 

死ぬに死ねないエゴの轍を断ち切ることが死への入り身であり、

 

感謝と祝福によって死を迎えたエゴは、本来の真の愛(天意)に再生することが出来ます。

 

 

それには、本人の明確な天意からの愛で生きる決意が必要です。

 

無意識のエゴに引っ張られたままだと、映画のように體を犠牲にする結末を迎えます。

 

 

*****

 

今の職は、身内に障がい認定者がいた経験値と給料アップを目論んだエゴ丸出しの選択です。

 

それでも、今回のような図らずも志事が成される場面が多々ありますから、エゴは天意に戻るキーパーソンなのです。